諸感 ヱヴァンゲリヲンQ 


エヴァンゲリオンQ批評

公開から一週間たってはいたが、エヴァンゲリオンQを新宿バルト9で鑑賞してきたので感想、いやむしろ批評を行ってみたいと思う。

以下「ネタバレ注意」















見た直後の感想は2点。
感想1:「は・・・?」
感想2:「面白くなかった・・・」

それで一日置いての感想は
「まあ、これでよかったのかもしれない」である。

以下、詳述する。

今回のQは破からのつながりが必ずしも明確に述べられているわけではない。
繋がっているにしては、細部が微妙に連続性を失っていて、果たして本当に破から直接繋がった話なのか?
という疑問を持たずにはいられない。

 例えば、ミサトの態度とかや、サードインパクト(ニアサードインパクト)の後の世界としては、不自然な点なども感じる。その他の類似点・相違点は他のサイトに任せるが、これは本当に続いているのか、という疑問を感じる。なにかシンジの記憶だけが続いていて、他の世界が再構築されているかのようだ。
 Qの物語の中自体でもどうも繋がっていないような感じもして、その連続性の無さはあたかも我々が通常に見る夢の中で状況の連続性が失われてるのに、当の本人は夢から覚めるまで気がつかない、あの無連続性と同じような印象を受ける。

全体的にストーリーがつかめないので、状況に入っていくことができず少なくとも初見ではポカーンとするしかなかった。状況さえ理解しずらいのでやや置いてけぼり感があり、面白い!という印象は受けなかったのが逆に印象的だった。


■面白く無くていい。
他所に良く見るように、別に謎をちりばめるのが主題だったから面白くなくていい、ということではない。

私は旧世紀版を中学生くらいに見ており、EOEを見たのが中学三年生くらいだったと思う。
当時、その凄惨さに身震いしたし、ただただ、迫力に魅了され、なんなんだこれはという感覚から、謎解き系の本もよく見たものだ。

謎解きは面白かったし、映像の迫力と謎の解明は十分に魅力的だった。

ただ、今になってみれば、謎解きをしたがるモチベーションを自覚する時があり、
気持ち悪いなと感じずには入られない自分がいる。

つまり、自身と他者の関係性に苦しむ時代にあれを見て、
ちゃぶ台返して「もう自分も他人もなくなってしまえばいいのに」と投げやりな精神状態をエヴァンゲリオンはは代弁してくれていたと感じる。アニメーションの迫力と、自分と他人の境が無くなるという結末にはなにかユートピア的なものを深層心理で感じていたのではないかと思うわけだ。

これがモチベーションになって、このエヴァンゲリオンの世界が「完成されたものであってほしい」という願望に結びついていた。
つまり、この作品が現実世界でも説得力のある結論であってほしいという欲求が働いていたとがんじている。

さまざまな設定にリアリティが欲しかった。そして、それを理解したいという欲求があった。言葉に出来れば馬鹿げたことだが、言葉に出来なければそれを意識的に批判することもできない。そんな、レベルでそれを求めていたように感じる。

■滑稽なこと
でも所詮は作り物で無理やりに完全性を求めることも滑稽なことだ。
監督の庵野氏のセリフとして「エヴァは衒学が聞きすぎた」とか「現実を見ろ」という言っていると聞いている。

確かに基本的に作り物であるものに完全性を求める有様は、狂信的で滑稽だ。
もともと作り物であるものに「設定」「世界観」の完全性を求めてくる視聴者を「気持ち悪い」と思っていたのかもしれない。

旧劇場版のラストの「気持ち悪い」のセリフは担当声優に監督が「もし夜に目が覚めて誰か見知らぬ人が自分でオ○ニーしていたら、どう思う?」という問いかけの結果のセリフだという。この心境、もしかしたら監督の気持ちそのものだったかもしれない。つまり、見た奴らが勝手に解釈して勝手に気持ちよくなってんぞと。

■Qのわけのわからなさ
その一つのメッセージがQのつまらなさだったのではないか、と思うのである。
先にQには感情移入ができるところが少なかった、と述べたが実は誰にというわけではなく、共感する部分はあった。

というのは、14年の眠りから目覚めた後シンジに対する周りの風当たりは強いあたりで特に感じる。起こってる事象のわけのわからなさ。本人がわからない力学でなにかか進行しているのに、その文脈に入れずに途方に暮れる。


それを見て「ああ、世の中ってこんなもんだよな」と感じた。たしかにミサトも破の最後であんだけシンジの背中押しておいて、これかよ、とも思うが、なにせ14年も過ぎているから途中なにが起こったかわからず批判することもできない。
 だが、ある人が後押ししてくれたからと言って、その人がいつも味方であるとは限らない。というか、いつかの誰かの優しい言葉なんて、その時の状況によってひっくり返るし、別段その人が悪いわけでもなく、そうなるものだ。逆にひどいことを言った人が突然助けてくれることもある。
 ミサトの場合はゼルエルからネルフ関係者を救ったシンジの意図はサードインパクトを抑える結果も予想され、シンジの成長もそこにあわせて願い、後押しを本心から言っていたとしても、結果的にシンジ自身がサードインパクトをおこし、ミサトの人生やネルフの皆の意義からもシンジ自体が使徒以上に危険な存在となってしまったという点では、この手のひら返しは納得できなくもない。その段階でシンジはミサトやネルフ職員からすれば単体でサードインパクトを起こせる最悪の悪魔になっているわけだから。シンジは自分のもった力に対して無自覚すぎると周りからは見えているだろう。この自分の責任を認識していない様子、たしかにガキと言われても仕方ない。まあ、シンジはそれを理解するチャンスは無かったわけだが、現実世界でもそれは言い訳にしてくれないから、たぶんそんなものだ。
 誰が何を言ったとか、約束などにこだわりはせずただ状況の変化によって、状況を理解し人のあり方だって状況の一つに過ぎないというのは、私は社外に出てから学んだことの一つでもある。

 そう。シンジが置かれた状況というのは、ちょうど社会人一年目くらいの自分に近いなと感じた。それは別にシンジに感情移入しているわけでもなく、「確かにこんな状況を理解できないわけのわからないことだらけだよな」と見ていて思ったのだ。
 そもそもこれまでながれてきた会社の流れがわからないし、自分に与えられる評価や周りの言説、行動も含めてかなり理解不能だった。しかし、そういう状況を含めて対処しなくてはならない、という泣きそうな置いてけぼり感と苦しさや、残念ながら泣いて家にいることもできないとい追い詰められ方で、少しづつ覚悟も決まっていったものだ。今になって思えば、新入ひさ社員として会社に入って、自分に期待されてる役割というものがあり、それは会社の文脈で決まっており、これまでの自分とはなんの連続性もない。別に自分はシンジのようなスゴイ役割はかされてないけど、自分の連続性を失った自分の与えられた役割で苦悩するという構図は変わらない。

エヴァQのわけのわからなさというのが、そういうことを暗示してるのかな、と思う。例えば「バカの壁」の養老孟司は「人生なんて基本的に分けの分からないもののはずなんですよ」ということを言っていたと思うし、たしか宮崎駿も同じようなことをいってなかっただろうか。

 もし学ぶべき現実感というのが、そういった「わけのわからなさ」だとすればエヴァQはそういう作品だった。かつてのエヴァにて人類補完計画によって魅了され、その作品の完全性を求めていただろう自分にとっては、そもそも現実にそんなに完全に理解できるものでもなく、またそれを理解できたところで、なにかがあるわけでもないのに、なにか閉じた世界観に救いを求めていたということが滑稽だったと再認識したという意味では十分魅力的な作品といえる。
 そして、エヴァの世界の謎はたぶん収束しないだろうから、そういう意味で求め続けても仕方がないだろう、ということも言える。

また、さらに言うべきことは、今回エヴァQに提示された謎達があまり魅力的ではないということもこの考えに拍車をかける。
 はっきり言って新戦艦がどーやって出てきたのかとか、なんであんなもん作れるんだ、どこの金であんなもの作れるんだとか、人類がほとんど死に絶えているというならそれだけの金と労働力はどうやって拠出したんだ、という問題があるが、正直どーでもいい。
 ネルフに問題があることが分かった国連あたりが作ってることになるんだろうが、ネルフ本体を叩くならあんなモノ作るより、旧劇場版の戦略自衛隊みたいな対人間用の軍隊を作って、ゲンドウと、冬月を叩けばいいわけだから、あまり魅力的な設定は出てこない気がする。使徒の殲滅も課題だからATフィールドを使う必要があったなら、別にエヴァンゲリオンを作っておけばいい話で、実際それまでの使徒は別段初号機を使わなくても倒せていたのだから、わざわざ初号機の帰還を待たなくてもよかったはずだ。

どちらにせよ、どの解釈を与えてもどこかで破綻するようにできていると思う。そこには「エヴァに解釈を求めて、完全性を求めてもなんにも出てこないよ。というか、そんなものを求める方が間違ってる」というメッセージが入っていそうだ。実際、監督はそんな、趣旨の発言をしているのだし。

 そういう意味では新劇場版はそれぞれに適切なメタメッセージを含んでいるのかもしれない。Qの場合は謎がなんちゃらと言ってる人間はなんのためにそれを欲しがるんだ。そんなもので逃げ込んだとしても、なんにもならないし、そもそも求めるべきじゃない。そして、謎の解釈とやらが好きな連中の心象はそもそも気持ち悪いんだよ。そんなものに現実ぽさを求めてなんになるんだ。というメッセージだとすればそれは成功していると思う。つまり、「ほら、つまらないことだろ?そんな妄想」というメッセージ。

Qは胎動という、意味のQuickeningの略だが、もういい加減エヴァに逃げ込むことをやめて、人々の胎動を促したいという意味にも見えるのが、おもしろいな、と思う。旧劇場版ではそれをやろうとして、見事に失敗してるから、今回は成功かもしれない。

だから、何年後になるかしらんけど最終作を流し見てエヴァは俺の中のエヴァは終わるだろうなと思う。若い頃の葛藤のモチーフとなり、自分のポートフォリオの一つにしまわれていくだろう。

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